*1801年バタヴィア共和国憲法国民投票 ➡ 1801年東インド・バタヴィア特別行政区住民投票(1801ねん_ひがしインド・バタヴィアとくべつぎょうせいくじゅうみんとうひょう)

 '23/02/28

 

ウィキペディア版】

*1801年バタヴィア共和国憲法国民投票:1801年10月6日、バタヴィア共和国憲法国民投票バタヴィアきょうわこくけんぽうこくみんとうひょう)が行われた。前回の1798年バタヴィア共和国憲法国民投票憲法草案が承認されたが、フランスはその憲法に満足せず、新しい憲法を起草させた。

1801年、新憲法国民投票が行われた。投票しなかった有権者が賛成として計算された結果、憲法草案は87.46%賛成で通過した。1801年10月16日、新憲法が正式に施行された。しかし、フランスは再びバタヴィア共和国に圧力をかけ、1805年バタヴィア共和国憲法国民投票で新憲法を通過させた。

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Twitter版】

#1801年バタヴィア共和国憲法国民投票

1801年東インドバタヴィア特区住民投票東インド会社解体後の1801年、新たに城塞化を図ったインドネシア港湾都市バタヴィアで行われた、バタヴィア市民の意思表明としてバタヴィアの行く末を左右した票決。オランダ領東インドの300年支配の決定打となった。

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【無修正版】

&1801年バタヴィア共和国憲法国民投票

1801年東インドバタヴィア特別行政区住民投票(1801ねん_ひがしインド・バタヴィアとくべつぎょうせいくじゅうみんとうひょう):

東インド会社解体後の1801年、新たに城塞化を図った『バンテン帝国(Banten_Sultanate-Empire)』の港湾都市バタヴィアで行われた、バタヴィア市民の意思表明としてバタヴィアの行く末を左右した票決。これを機にオランダの態度は高圧的となり、オランダ領東インドの「300年に及ぶ植民地支配」が決定的となった。

この票決は、バタヴィアの主導という建前であったが、実質、オランダ総督府の監督の下で行われた。尚、総督府は、「オランダの傘下に入り、バンテンの重税を拒絶し、苛烈極まるイギリスの侵略に抵抗しよう」という、聞こえのいい謳い文句を流布し、作為的に市民を扇動することによって、投票結果をオランダにとって一方的に有利となる方向へと導いた。

それにより、これまでやんわりとした租借地だったバタヴィアは、貸与国であるバンテン帝国から隔離され、確固たる植民地としてオランダ総督府支配下に置かれることとなった。

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【元ネタばらし】

●1801年東インドバタヴィア特別行政区住民投票(1801ねん_ひがしインド・バタヴィアとくべつぎょうせいくじゅうみんとうひょう):『1801年バタヴィア共和国憲法国民投票』より。

*『1801年』から、[1801年]を転用し…

*『バタヴィア共和国』から、[東インドバタヴィア特別行政区]を連想し…

*『国民投票』から、[住民投票]を連想した。

東インド会社解体:1602年から存続した東インド会社は、風呂敷を拡げ過ぎたことで経営悪化に陥り、1799年に解体した。

バタヴィアの植民地支配は、翌1800年より、オランダ領東インドへと引き継がれた。

●新たに城塞化を図った:1808年、湾岸都市だったバタヴィアが、内陸部に『新市街を建設した』ことにより。

港湾都市であるバタヴィアは、海岸線沿いに城壁を築いていたが、イギリスの最新鋭の艦砲射撃を警戒して、これまでの市街地を放棄し、内陸方面へ約7㎞の位置に新たな市街地を建設した。

●バンテン帝国(Banten_Sultanate-Empire):バタヴィアをオランダへ貸与した『バンテン王国』より。

港湾都市バタヴィアインドネシアの首都ジャカルタの、オランダ植民地時代の名称。

ジャカルタは昔「スンダ・クラパ」と呼ばれており、12世紀頃から港町として栄えていた。

◆オランダ領東インド:1603年から1942年までの約350年間に、オランダが植民地支配した東インド諸島

*首都だったジャカルタは1619年以降、オランダ地方の古称である「バタヴィア」へと名称が変更された。

◆300年に及ぶ植民地支配:1603年から1942年までの約350年間に及ぶ、オランダによる東インド諸島の植民地支配。

■「オランダの傘下に入り、バンテンの重税を拒絶し、苛烈極まるイギリスの侵略に抵抗しよう」:オランダ総督府による、シビリアン・コントロールの一環。住民投票に狙いを定めたプロパガンダであり、あくまで市民が考え、市民が行動した体裁で、総督府の思惑通りに市民に選択させる画策のためのスローガン。

*イギリスの三枚舌外交に準えて、甘言を振りまき為政とする言葉が思いつかない…

バタヴィア市民は、オランダとバンテンへ支払う二重課税に苦しんでいたとし…

バタヴィア市民は、バタヴィアの利権を狙うイギリスを恐れていたとした。

 

 

▶カテゴリ:事案/

▶参考:ウィキペディア

*logjun>住民投票をわかりやすく解説!事例・法的拘束力やメリットデメリットも!/

*Omdoyok's_Data_Library_度欲おぢさん_バーチャル資料室>友人たちの論文集>21_ニャイダシマ/

▶各方面にて敬称略/

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